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1、1988年3月の、とある早朝

 ここは田舎の高校なので、結構セキュリティがいい加減である。
 屋上に出る扉の鍵は、実をいうと壊れているのだが、生徒は一部を除いて誰も知らない。ここ20年ばかりトラブルらしいトラブルもないので、教員もあまり問題にしない。従って、二人が授業開始まで、ここでひとときの休息を楽しんでいても、誰も文句を言いはしない。
 夕べの雨で、屋上は冷たく濡れている。但馬陽介はそのコンクリートの上を吹きぬけてくる春の風を受けながら、澄み渡る空を眺めていた。積翠と呼ばれる山城の彼方の空である。長い髪がかすかに揺れているが、その表情は泣き笑いなど一切忘れたかのように凍りついている。ただ、そのまなざしだけが遠くを見ていた。
 「そろそろ行こ。まだ寒いわ、ここ」
 細いチタンフレームの眼鏡をかけなおし、詰襟の服の上から体をさすりながら、氷室玲瓏は、緩やかな京都方言でぼやいた。
 ここへ来てから1年。陽介の家にずっと下宿しているが、彼の考えていることはいまひとつ分からない。なんとなく彼と行動することが多いが、こんなことはちょくちょくある。いや、こんなことぐらいはまだましというべきか。
 「あ、氷室君!おはよ!」
甲高い声にぎくりとして振り向くと、屋上に出る扉を開けて、同級生の浅井奈美が微笑んでいる。
とっとこと歩み寄ると、背伸び抜きで、顔が氷室と同じ高さに来る。
 「キスはまだ早いで」
 「ばれたか」
 朝一番の軽い冗談を叩いて向き直ると、そこにはもう、陽介の姿はない。
 そろそろ1-5の朝礼の時間である。

2、日常にひそむささやかな怪異

 「なあ、氷室君、さっき英語のここ分かる?」
 石動絵梨佳が、黒目がちの瞳をまっすぐに向けて、氷室の顔を覗き込む。この子はいつでもこうだ。無防備というか人懐っこいというか馴れ馴れしいというか、とにかく、人との間に壁というものがない。
 こういう子と交際する男の子はたいへんである。いつも相手の動向に気を配り、妙なちょっかいを出されないように警戒していなければならない。掛井悠鷹は、なんだなんだとさりげなくやってきて、カノジョのそばに立って話を聞くふりをする。分かっても分からなくてもいい。どっちみち英語など分かりはしないのだから。大事なのは、氷室のナンパに睨みを利かすことである。
 ほっときゃいいのに、と那智みゆきは部日誌の朝練記録を書きながら、3人の様子をちらちら見ている。剣道部の練習に来る頃は、丁度、氷室と陽介が屋上に登る時間である。何が面白いのかよくわからないが、陽介はともかく氷室は気になる。
 入学したときから、なんとなく好みだなと思える程度には美形で、なんとなく垢抜けたところがある。しかし、女の子には軽いが、深く付き合うことはない。氷室にとってここの人間は、所詮田舎者なのであろうということは、なんとなく見当がつく。
 (悠鷹君も気にすることないのに)
 日誌に目を戻して、ペンを走らせる。

 「起立」
 突然声がかかり、授業が始まる。世界史の香坂が教室に入ってきたのだ。
 時計は既に、授業開始時刻を指している。
 チャイムが壊れているのか? 大抵の者がそんなことを考えながら、いつものようにノートをとりはじめる。

3、異世界を見る者

 「あの5分、どっか消えたな」
 「ん……」
 屋上で弁当を食べながら、氷室は陽介の返事を、どっちの意味か考える。
 「はい」か「いいえ」か、いや、それ以前に聞いているのかいないのかよくわからない返事である。
 「まだ、5分あると思ってたんやねんけど……」
 「英語終わってからの5分間のことは覚えてないんだな」
 氷室はきょとんとしてから、眼鏡を指先でつついてかけなおし、陽介の顔を見る。
 「それでいいんだ」
 弁当を食べ終わった陽介は、アルミの箱を丁寧に包みなおす。
 澄み渡った早春の空を仰いでしばし考えて、氷室はある事実に思い当たった。
 「お前今日、弁当持ってきたか?」
 向き直ってみると、やっぱり陽介はいない。

 「弁当ぐらいのことで、手を煩わすでない」
 鮮やかな萌黄色の小袿をまとった少女が、陽介の前にふわりと舞い降りた。校庭脇の楠にもたれて、薄い雲が流れるのをながめているときである。
 「姫か。弁当のほうで勝手にやってきたんだ。僕のせいじゃない」
 陽介は、露洞姫(つゆぼらひめ)に抑揚のない声で答える。悪びれた様子は一切ない。
 校庭からは、サッカーに興ずる生徒たちの声が聞こえる。誰一人として、姫の姿と、陽介のつぶやきに気づく者はない。

 なんのことはない。
 英語の時間が終わってから、陽介の忘れた弁当が、教室の扉を自分で開けてやってきたのである。どんな形をしていたかは、表現のしようがない。とにかく、やってきたものはやってきたのである。
 当然のことながら教室内には戦慄が走る。戦慄というより、見てはいけないものをみてしまったというか、夢だと思いたいというか……そんな恐怖で、その場にいた全員の思考が停止してしまったというのが最も正確だろう。
 とにかく、忘れていた宿題やったり早弁したり、そのままの姿勢で固まってしまった生徒の間を、その弁当はすり抜けてきたのだ。

 こんなとき、後始末をするのは姫である。すべてをなかったことにする力を、彼女は持っている。
 陽介が、受け取った弁当を鞄にしまいこむと、すべては五分前の状態から始まった。
 ただひとりを除いて……

4、BOY MEETS GIRL

 1日の授業が終わる。
 それぞれが、帰途についたり部活に向かったり、どちらにも向かわずに姿をくらましたりする。
 奈美は多少寄り道はするが自宅へ向かい、みゆきは格技場へ走る。
 絵梨佳は新体操部に向かう。小柄な悠鷹は、体操部であるので、行き先は同じである。
 氷室と陽介は、演劇部員であるが、彼らを見てそうと気づく者は少ない。演劇部員とはそういうものである。

 演劇部と新体操部と体操部が体育館で顔を合わせるのは、そう珍しいことではない。ただ、演劇部と接触する体育会がそんなにないだけの話である。演劇部はステージに立ち、あとはアリーナで練習に励む。あまつさえ、ステージとアリーナは防球ネットで仕切られている。接触の仕様がない。
 ところが、今日はちょっとだけ事情が違った。新体操部は、ステージの真ん前で練習していたのである。
 演劇部員は5分間のストップモーションを命じられ、新体操部員は蛍光ピンクのジャージ姿でフープのバックスピンに精を出す。
 氷室の静止させられた筋肉が悲鳴をあげ始めたとき、目の前に絵梨佳の投げたフープが、回転不足でぱたりと倒れた。長い髪をポニーテールにまとめた華奢な姿が、視界にととッと駆け込んでくる。
 フープを拾って、にっこり笑いかける。微笑み返したいが、あいにく、ストップモーション中である。その上、彼女の笑顔は、氷室ではなく、彼の前でぴくりとも動かない陽介に向けられていた。
 なんだか面白くない、と思った時、彼女は一言残して、フープ投げのスタートラインへ駆け戻っていった。
 ……お弁当、忘れちゃだめよ……
 そういう条件下だから仕方がないが、陽介は眉ひとつ動かさない。
 (ちいとは喜べ、朴念仁!)
 腹の中で毒づきながら、氷室は顔と手足の筋肉を固定すべく静かに呼吸を整え、ついでに怒りを収めようと努めることにした。

(完)

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